興慶宮公園は西安の東に位置する興慶宮の遺跡の上につくられました。
ここはもともと唐の長安城の隆慶坊の一部で、玄宗皇帝が皇太子の時に住んでいたところです。彼は即位2年後の紀元714年に、もとの官邸を宮殿に建て直し、その後何度も増築を行い、紀元728年、玄宗皇帝が興慶宮で政務を執って以来、唐代の封建支配の中心となりました。
開宝天宝年間は国家も強大で栄えていたため、興慶宮の建築もいっそう豪華になり、園林作りもさらに凝るようになりました。史書には玄宗皇帝が興慶殿でペルシャ景教と日本の友人と会見したとの記載もあります。「安史の乱」以後、興慶宮は政治上の重要な地位を失い、退位した皇帝が住むところとなりました。そして、唐末期の戦乱により、興慶宮の全ての建築は焼かれてしまい、清の初めにはもはや廃墟になってしまいました。
1957年に、西安市政府は興慶宮の遺跡に興慶宮公園を作り、現在の総面積50ha。「沈香亭」「花萼相輝楼」「南薫楼」などなど、いずれも唐代の建築を模し、昔の名前をそのままにして、ほぼ本来の遺跡の上に建てられました。
興慶湖はこの公園の一番のスポットで、公園の中央にあり、公園総面積の5分1を占めています。そこで玄宗皇帝が楊貴妃を始めとする妃たちや文武大臣と船遊びを楽しんだことはよく知られています。
沈香亭はもともと沈香木という木を使って建てられました。周りには様々な牡丹、芍薬が植えられています。玄宗皇帝と楊貴妃は年に一度ここで花を楽しみ、有名な詩人李白を参内させ、満開の牡丹を詩に詠ませたこともあります。「名花傾国両つながら相歓ぶ、常に君王の笑いを見るを得たり、春風無限の憎みを解釈し、沈香亭の北欄干に倚る」。
園内には、1979年に入唐1200年の記念として、阿倍仲麻呂の記念碑が建てられました。