大明宮は唐長安城の三大宮殿の一つで、唐の政治文化の中心となっていた場所です。故宮のおよそ4倍ほどあり、現在の西安城の北に位置しています。もとの宮殿城壁は全長7.6キロぐらい、東西南北に合わせて11の城門がありました。現在明確された遺跡は40箇所以上あります。2008年から政府はその周辺を整備して、2010年に遺跡公園として開放しました。公園部分は無料で、遺跡部分は有料です。
丹鳳門:大明宮の正南門、皇帝専用の出入り口で、大雁塔と一直線となっています。長安城と中国古代都市の考古研究をする上で重要なものとなっています。
含元殿跡:故宮の太和殿に相当するもので、ここの修復事業はかつて日本政府からユネスコに提供された信託基金の援助により実施されていました。含元殿跡には東西約200m、南北約100m、高さ約15mの巨大な基壇が残っています。すでに創建から1300年以上を経ていますが、規模構造ともに豪壮、華麗なものであったと想像できます。しかし、このまま技術上の保護措置を講じなければ、徐々に消滅していくことが懸念され、これ以上現存する遺跡を破壊されることのないように、守ることが急務となっていました。大明宮含元殿修復事業は大明宮の中心建物である含元殿跡を未来への遺産として永久に残すことと、歴史教育や古代文化に直接触れることのできる場にすることを主要な目的としたのです。含元殿は紀元622年に造営が開始され、その翌年から223年間にわたって使用されました。大明宮の主殿である含元殿は国家の儀式・大典が執り行われた場所です。元旦・冬至の式典、閲兵などの観閲、外国使節団の謁見、そして改元・即位・受賀・大赦などの諸儀式、大典はここで挙行されました。含元殿の建築物は788年正月の大地震の後、地震・大風・大雨などの自然災害に見舞われ、その度ごとに修復を重ねました。唐代末期になると、長安城はいく度かの戦火に見舞われましたが、含元殿は概ね創建された時の姿を200余年にわたって保っていたものと推定されます。しかし886年経ち、遂に兵火のために失われたと言われています。
唐代には長安で活躍した遣隋使や遣唐使がたくさんいましたが、そのうち、遣唐大使藤原清河・副使大伴古麻呂が含元殿で玄宗皇帝臨席のもとに挙行された753年正月の朝賀の儀式において、新羅の使節と席次を争った事件は日唐の外交史上、有名な話です。