永泰公主は唐の中宗の7番目の娘で、高宗と則天武后の孫娘にあたります。彼女は則天武后の実家の人と結婚しましたが、701年に17歳の若さで亡くなり、洛陽に埋葬されました。現在のところに埋葬されたのは中宗が即位してからのことです。彼女は南山で亡くなったと言われていますが、則天武后を怒らせ、死を賜ったとも言われています。後に中宗によって永泰公主という名を追贈されて、乾陵に陪葬されました。この墓は乾陵の南東に位置し、1960年8月から1962年4月まで発掘されました。これは解放後発掘された最も大きなお墓です。墓は全部土を盛り上げて造られ、墓道はスロープ状で、高さ2m、幅3.9m、玄室までの長さが87.5mです。入口に入って、両側の壁に、東側は青龍、西側に白虎の壁画が描かれています。そして、将軍が鎧をつけ、宝剣を身につけた儀仗隊を率いている画もあります。もう少し奥に進むと大きな墓誌銘が見えます。この墓誌銘には「大唐故永隊公主」と篆書で刻まれています。下の石台の上には830文字が楷書で刻まれており、側面にはつる草模様や十二支の動物などが見事に描かれています。葉か道の左右対称の位置にはそれぞれ四個、あわせて八個の小さな龕が造られています。また、唐三彩の家屋、井戸、燭台、壷などのほかに婦人俑、騎馬俑や石、馬、豚、羊などの陶俑が置かれています。さらに進むと、発掘したときに発見した盗掘の穴があり、その時、ここで人の死体と鉄の斧が発見されました。
この墓は明らかに盗掘されていましたが、それでも素晴らしい唐三彩、陶俑など1350点もの出土品がありました。
天庭の部分が終ると、ドーム状の墓室になります。墓室は前墓室、後墓室に分かれています。前墓室は応接間を表しています。両側の壁は画で埋め尽くされており、特に「仕女図」は高松塚古墳の壁画に似ており、日本でも良く知られています。しかし、その大きさや力強い筆致などに違いが認められており、壁に描かれているこの八人の宮女は唐代の典型とも見られるもので、頬が張り、眉が太く、いかにも意思が強そうな顔つきです。ある宮女は燭台を手にとり、あるものは扇、あるものは如意を持っています。それぞれの容姿も違い、ひそひそとささやいていて、まるでそれにうなずいているような者もいます。彼女らはまるで主人の用事のために道を急いでいるようです。
この「仕女図」について、専門家は侍女の服装から2つの事実を指摘しています。ひとつは侍女の履いている靴の大きさから唐代の婦人が纏足ではなく、今の女性とまったく同じということで、もうひとつは侍女の副葬がきわめて自由で、胸元がゆったりして、おおらかな感じがあるということです。唐の時代の女性は儒教の三綱五常の礼儀から受ける束縛が少なくなっていたことがわかっていますが、唐王朝が李耳老子の道教を提唱し、儒教を抑えたことと係わりがあるようです。唐の時代の女性は大変優遇されていて、女性万能の時代だったとも言えます。
前墓室から後墓室へ。中には石椁があり、横4m、高さが2.5mあります。石椁には門があり、その上にドアノッカーがついて、その脇に二人の宮女像が彫られています。石椁の中には木棺があり、泥水に浸かって長い年月を経たため、もはや腐っていました。後墓室の天井には天象図があり、東の方は太陽を象徴する三足金鳥で、西の方は月を象徴する玉兎、その間は天の川で、星が正しい位置に配置されています。これによって、当時の天文学の発達ぶりがよくわかります。唐代の陵墓の特徴は彼らの住んでいた宮殿を真似て作られ、彼らの生前の生活を再現しようとした点にあります。墓道や玄室にはいろいろなものを飾り、色鮮やかな壁画は写実的に描かれて、柩は全て家屋の形をしています。それらの文物は当時の社会生活や宮廷建築や女性の服装、髪の形などを研究する貴重な資料となっています。
永泰公主の墓の前には乾陵博物館があり、ここにはいくつかの陪塚から発掘された出土品が展示されています。第一室は乾陵と永泰公主墓の説明で、乾陵の復元鳥瞰図もあります。第二室は永泰公主墓と同じように、章懐太子、懿徳太子の部屋で、唐三彩の出土品がたくさんあります。そして唐代の優れた絵画、芸術を偲ばせる壁画も目を引きます。