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汽車旅ひろば - ひろやすの汽車旅コラム

汽車旅ひろば


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"鉄道フォーラム"代表の伊藤博康氏による鉄道コラム。
毎回幅広いテーマの中から、「乗ってみたい」「知って良かった」「へぇ~」な汽車旅関連の話題をご紹介します。お楽しみに!

長浜鉄道スクエアではここを見逃すな! [No.H249]

前回は、長浜の地が鉄道草創期からいかに重要な地であったかということと、今夏開催されている企画展「おもちゃ鉄道と遊覧鉄道展」について記しました。
今回は、前回紹介できなかった長浜鉄道スクエアの見どころを紹介します。


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北陸線電化交流館の目玉展示車両、ED70 1。北陸線交流電化のために造られ、唯一現存する電気機関車。
長浜鉄道スクエアは前回紹介したとおり、
・旧長浜駅舎
・長浜鉄道文化館
・北陸線電化記念館
の3つの建物から成っています。
入口が旧長浜駅舎で、企画展が開催されているのが長浜鉄道文化館となります。
それぞれ、建物と展示資料が特徴なのに対して、北陸線電化記念館は実物車両の展示が大きな特徴です。
展示されているのは、北陸線交流電化にあたって19両が製造されたED70のファーストナンバーED70 1。それと、電化まで活躍していた蒸気機関車D51 793です。
ED70 1は昭和32(1957)年三菱電機製で、最初の電化区間である田村~敦賀間で昭和50年まで活躍しました。田村駅は長浜駅のひとつ米原駅寄りにある駅です。当時、交流電化がはじまったところで、昭和32年9月に仙山線、同10月に北陸線が交流電化されたのが国内初の交流電化です。
交直両用車が登場するまでにはさらに時間がかかりましたので、交流区間と直流区間を完全に分けて、米原~田村間4. 7kmの非電化区間は蒸気機関車やディーゼル機関車が牽引していました。
その電化前後の花形車両が、北陸線電化交流館では間近に見られるというわけです。それも、よくある公園の静態保存機と違い、整備の行き届いた車両のまわりには柵がありません。まさに手が届くほど近付いて見学ができます。また、両機とも運転室が公開されていますので、電気機関車と蒸気機関車の運転室の違いを直に見比べることができます。
なお、北陸線はJR西日本となった後に、まずは米原~長浜間が直流化され、その後長浜~敦賀間も直流化されています。ですから、北陸線の交流区間はいま、敦賀以東となっています。


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琵琶湖の鉄道連絡船を使っていた時代をそのまま残す、旧長浜駅の内部。扉の左に汽船時刻表が見られる。
長浜鉄道スクエアの出入口部となる旧長浜駅舎は、1階がほぼすべて公開されています。
前回記したとおり、東海道線と北陸線で長浜にきた旅客が、この長浜駅で琵琶湖の船に乗り換えて大津へ向かい、大津から再び東海道線に乗って京都・大阪・神戸へと向かっていました。そのための待合室が駅舎内にあり、いまもその様子を見ることができます。
左の写真が、1,2等待合室…つまり今でいうグリーン車利用者用の待合室入り口部分です。洋風な造りで、待合室内の右側には暖炉が見えています。当時、英国からの技術輸入でしたが、英国式だと暖炉を設けるのが当然という発想だったそうです。駅舎の外壁が50cmもの厚さのコンクリートでできていることも、寒冷な英国では内部保温のために当然の仕様だったのでしょう。
待合室の出入口扉の左側には、「汽船時刻表」が掲げられています。太湖汽船会社という琵琶湖の鉄道連絡船を運行していた会社の広告です。不況のため2往復としていた連絡船を、明治19年3月15日改正で以前の3往復に増便するという内容です。長浜港・大津港の出航時刻だけが記されていますが、所要は4時間だったそうです。また、途中、彦根港にも寄っていたということです。
いま新幹線に乗れば、東京から4時間で広島まで行けてしまいます。いかに遠出が大変な時代だったかを感じさせられます。


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旧長浜駅舎前に保存されている、鉄道記念物のポイントと、北陸線のトンネル出入口部に掲げられていた石額。
長浜鉄道スクエアの前庭は、小公園のようになっています。そこには数々の鉄道関連物が展示されています。これらは、入館しなくても見られる場所となります。
右の写真に大きく写っている線路は、ポイント(分岐器)部ですが、これがなんと、旧長浜駅時代に駅構内に敷設されていたものだそうです。ポイントは見ての通り動く部分があるので、通過するだけの線路部分よりも磨耗が激しいものです。ですから、他所よりも早く交換されるのが一般的です。それだけに、長浜駅創業時となる明治15(1882)年に敷設されたものが、いまも現存しているのは極めて珍しいことです。
このポイントがあった場所が、構内では比較的使用頻度の低かったこと。東海道線が開通して琵琶湖の鉄道連絡船がなくなるまで7年間と短かったこと。さらに明治36年には現長浜駅に駅が移動したことから、酷使されずに現役を続けたという、いくつもの偶然が重なって保存されることになったといいます。
部品としてはイギリスのキャンメル製ですが、輸入後に鉄道局神戸工場で組み立て、枕木に固定する部材は神戸工場で独自に製作しています。技術を欧米から吸収する時代に、できるだけ自国で製造してノウハウを蓄積しようとしたことがうかがえます。
これらの経緯から、昭和36(1961)年に鉄道記念物に指定されています。

ポイントの奥には、石額が並んでいます。
これらは、北陸線のうち、今は新線に切り替わっているところにあった、トンネルの出入口上部に掲げられていた扁額です。
揮毫は、初代内閣総理大臣の伊藤博文、第二代内閣総理大臣の黒田清隆、鉄道院総裁の後藤新平といった蒼々たる人々によるものです。
明治時代の幹線建設が、いかに国家的なものであったかがわかりますよね。


掲載日:2017年08月18日


●伊藤 博康(いとう ひろやす)
(有)鉄道フォーラム代表。愛知県犬山市生まれ。パソコン通信NIFTY-Serve草創期から鉄道フォーラムに関わり、1992年から運営責任者。(有)鉄道フォーラムを設立後、独自サーバでサービスを継続中。著書に「日本の “珍々”踏切」(東邦出版)「鉄道ファンのためのトレインビューホテル」「鉄道名所の事典」(東京堂出版)がある。現在、中日新聞社「達人に訊け」でもコラムを連載中。