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"鉄道フォーラム"代表の伊藤博康氏による鉄道コラム。
毎回幅広いテーマの中から、「乗ってみたい」「知って良かった」「へぇ~」な汽車旅関連の話題をご紹介します。お楽しみに!
毎回幅広いテーマの中から、「乗ってみたい」「知って良かった」「へぇ~」な汽車旅関連の話題をご紹介します。お楽しみに!
東武鉄道「SL大樹」をけん引するC11 207号機の経歴 [No.H255]
「SL大樹」の先頭で煙を吐く蒸気機関車C11形207号機が、どんな経歴をもつ機関車かを今回紹介します。
C11形は「タンク機関車」という、石炭と水を機関車本体に積んでいるタイプです。幹線系を走る蒸気機関車は、石炭と水を積んだ炭水車(テンダー)を機関車につないでいることから、テンダー機関車といいます。C57,D51などが代表的なテンダー機関車です。
C11形は、昭和7年から昭和22年までの15年間で381両が製造された、日本のタンク機関車を代表する形式です。その活躍は、支線区や構内入換はもちろんのこと、幹線の快速列車などでも見られました。
国鉄時代の現役蒸気機関車の末期には、早岐~佐世保という一部区間ながら寝台特急「さくら」を本務機としてけん引したり、長崎国体などでお召し列車をけん引するなど、タンク機としては珍しいほど華々しい活躍をしていました。
配置区は、北海道から九州まで全国各地にわたっていました。それほど扱いやすく、重宝された蒸気機関車だったといえましょう。
3つの動輪は直径が1520mmで、幹線旅客用C57,C62等の1750mmよりは小さいものの、貨物用のD51,D52等の1400mmよりも大きく、それだけスピードを出すことができました。
先輪が1軸、従輪が2軸あるため、前後どちらに走行しても安定しています。転車台がないことが多い盲腸線でのバック運転も想定した設計です。
いま動態保存されているC11形は、この207号機のほか、JR北海道の171号機、真岡鐵道の325号機、大井川鐵道の190号機と227号機と5両もあります。これは、動態保存機で最大両数の形式となっています。
左の写真は、昭和49(1974)年3月30日に函館本線の国縫(くんぬい)駅で撮影したものです。当時、C11 207号機は、C11 171、C11 176号機とともに長万部機関区に配置され、国縫駅から分岐して日本海側の瀬棚駅までの瀬棚線の貨物列車のけん引にあたっていました。瀬棚線は、いまでは廃止されたローカル線です。
筆者が訪れた日は、207号機と171号機の2両がけん引する日でした。両機とも、いま動態復帰して、171号機は「SL冬の湿原号」などで活躍しています。
筆者が写真を写し始めた頃の稚拙な写真ですが、当時の国鉄駅とその周囲の様子が感じられると思います。
この写真で注目して欲しいのは、前照灯です。一般的に、蒸気機関車の前照灯はナンバープレートの上、煙突の前に1灯ついています。ところが、この機関車の前照灯はナンバープレートの斜め上、煙突の斜め前についていますよね。
この写真では一方しか写っていませんが、左右に2灯ついています。そのため「二つ目」とか「カニ目」と呼ばれていました。
C11 207号機は、日高本線の静内に長く配置されていました。いま、自然災害で大半の区間が運転されていない日高本線ですが、多くのカーブがあります。そのカーブに対応するため、二つ目にされたと言われています。
同じく二つ目の機関車として知られていたのは、胆振線(伊達紋別~倶知安)と岩内線(小沢~岩内)を走っていた9600形でした。胆振線・岩内線ともに、いまは廃止されています。
瀬棚線の蒸気機関車けん引列車は、昭和49(1974)年6月30日のさよなら列車をもって廃止されました。さよなら列車の牽引機はC11 207号機で、この写真を写した、ちょうど3ヶ月後のことでした。
瀬棚線でのさよなら運転後、3ヶ月を経て廃車となったC11 207号機は、永らく活躍した静内で保存されました。
月日が経ち、国鉄がJR北海道となったのは昭和62(1987)年4月1日のことです。それからさらに13年を経た2000年に、C11 207号機は動態復活を遂げます。前年にNHKの連続テレビ小説で「すずらん」が放映され、その舞台となった明日萌(あしもい)駅は、留萌本線の恵比島(えびしま)駅を使いました。このロケが復活のきっかけでした。
「すずらん」のロケには当初、真岡鐵道からC12 66号機を借りたのですが、後半にはJR北海道が動態復活させたC11 171号機が使用されました。ここにJR北海道の蒸機運転が再開されることとなり、同機を追って、C11 207号機も動態復活を果たしたのでした。
2両のC11形は、それぞれに持ち場を持ちつつ、不調の際にはもう一方が応援に駆けつけるような運行をしていました。C11 207号機の持ち場は、函館本線の小樽~倶知安間を走る「SLニセコ号」でした。さらに、季節によって函館~大沼公園間等でも走っていました。
右上の写真は、平成17(2005)年10月8日に「SLニセコ号」として倶知安駅に到着したときのものです。この写真から9年後の平成26(2014)年に同機の運行が終わり、去就が注目されていたところ、東武鉄道に貸し出されて鬼怒川線で走ることになったものです。
東武鉄道で走りはじめた「SL大樹」の先頭に立つ、C11 207号機は、以上のような変遷を経てきました。二つ目の動態保存機は、国内唯一です。同機を見たときには、これらのことを思い出して下さいね。
掲載日:2017年09月29日
C11形は「タンク機関車」という、石炭と水を機関車本体に積んでいるタイプです。幹線系を走る蒸気機関車は、石炭と水を積んだ炭水車(テンダー)を機関車につないでいることから、テンダー機関車といいます。C57,D51などが代表的なテンダー機関車です。
C11形は、昭和7年から昭和22年までの15年間で381両が製造された、日本のタンク機関車を代表する形式です。その活躍は、支線区や構内入換はもちろんのこと、幹線の快速列車などでも見られました。
国鉄時代の現役蒸気機関車の末期には、早岐~佐世保という一部区間ながら寝台特急「さくら」を本務機としてけん引したり、長崎国体などでお召し列車をけん引するなど、タンク機としては珍しいほど華々しい活躍をしていました。
配置区は、北海道から九州まで全国各地にわたっていました。それほど扱いやすく、重宝された蒸気機関車だったといえましょう。
3つの動輪は直径が1520mmで、幹線旅客用C57,C62等の1750mmよりは小さいものの、貨物用のD51,D52等の1400mmよりも大きく、それだけスピードを出すことができました。
先輪が1軸、従輪が2軸あるため、前後どちらに走行しても安定しています。転車台がないことが多い盲腸線でのバック運転も想定した設計です。
いま動態保存されているC11形は、この207号機のほか、JR北海道の171号機、真岡鐵道の325号機、大井川鐵道の190号機と227号機と5両もあります。これは、動態保存機で最大両数の形式となっています。
左の写真は、昭和49(1974)年3月30日に函館本線の国縫(くんぬい)駅で撮影したものです。当時、C11 207号機は、C11 171、C11 176号機とともに長万部機関区に配置され、国縫駅から分岐して日本海側の瀬棚駅までの瀬棚線の貨物列車のけん引にあたっていました。瀬棚線は、いまでは廃止されたローカル線です。
筆者が訪れた日は、207号機と171号機の2両がけん引する日でした。両機とも、いま動態復帰して、171号機は「SL冬の湿原号」などで活躍しています。
筆者が写真を写し始めた頃の稚拙な写真ですが、当時の国鉄駅とその周囲の様子が感じられると思います。
この写真で注目して欲しいのは、前照灯です。一般的に、蒸気機関車の前照灯はナンバープレートの上、煙突の前に1灯ついています。ところが、この機関車の前照灯はナンバープレートの斜め上、煙突の斜め前についていますよね。
この写真では一方しか写っていませんが、左右に2灯ついています。そのため「二つ目」とか「カニ目」と呼ばれていました。
C11 207号機は、日高本線の静内に長く配置されていました。いま、自然災害で大半の区間が運転されていない日高本線ですが、多くのカーブがあります。そのカーブに対応するため、二つ目にされたと言われています。
同じく二つ目の機関車として知られていたのは、胆振線(伊達紋別~倶知安)と岩内線(小沢~岩内)を走っていた9600形でした。胆振線・岩内線ともに、いまは廃止されています。
瀬棚線の蒸気機関車けん引列車は、昭和49(1974)年6月30日のさよなら列車をもって廃止されました。さよなら列車の牽引機はC11 207号機で、この写真を写した、ちょうど3ヶ月後のことでした。
瀬棚線でのさよなら運転後、3ヶ月を経て廃車となったC11 207号機は、永らく活躍した静内で保存されました。
月日が経ち、国鉄がJR北海道となったのは昭和62(1987)年4月1日のことです。それからさらに13年を経た2000年に、C11 207号機は動態復活を遂げます。前年にNHKの連続テレビ小説で「すずらん」が放映され、その舞台となった明日萌(あしもい)駅は、留萌本線の恵比島(えびしま)駅を使いました。このロケが復活のきっかけでした。
「すずらん」のロケには当初、真岡鐵道からC12 66号機を借りたのですが、後半にはJR北海道が動態復活させたC11 171号機が使用されました。ここにJR北海道の蒸機運転が再開されることとなり、同機を追って、C11 207号機も動態復活を果たしたのでした。
2両のC11形は、それぞれに持ち場を持ちつつ、不調の際にはもう一方が応援に駆けつけるような運行をしていました。C11 207号機の持ち場は、函館本線の小樽~倶知安間を走る「SLニセコ号」でした。さらに、季節によって函館~大沼公園間等でも走っていました。
右上の写真は、平成17(2005)年10月8日に「SLニセコ号」として倶知安駅に到着したときのものです。この写真から9年後の平成26(2014)年に同機の運行が終わり、去就が注目されていたところ、東武鉄道に貸し出されて鬼怒川線で走ることになったものです。
東武鉄道で走りはじめた「SL大樹」の先頭に立つ、C11 207号機は、以上のような変遷を経てきました。二つ目の動態保存機は、国内唯一です。同機を見たときには、これらのことを思い出して下さいね。
掲載日:2017年09月29日
●伊藤 博康(いとう ひろやす)
(有)鉄道フォーラム代表。愛知県犬山市生まれ。パソコン通信NIFTY-Serve草創期から鉄道フォーラムに関わり、1992年から運営責任者。(有)鉄道フォーラムを設立後、独自サーバでサービスを継続中。著書に「日本の “珍々”踏切」(東邦出版)「鉄道ファンのためのトレインビューホテル」「鉄道名所の事典」(東京堂出版)がある。現在、中日新聞社「達人に訊け」でもコラムを連載中。
(有)鉄道フォーラム代表。愛知県犬山市生まれ。パソコン通信NIFTY-Serve草創期から鉄道フォーラムに関わり、1992年から運営責任者。(有)鉄道フォーラムを設立後、独自サーバでサービスを継続中。著書に「日本の “珍々”踏切」(東邦出版)「鉄道ファンのためのトレインビューホテル」「鉄道名所の事典」(東京堂出版)がある。現在、中日新聞社「達人に訊け」でもコラムを連載中。