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"鉄道フォーラム"代表の伊藤博康氏による鉄道コラム。
毎回幅広いテーマの中から、「乗ってみたい」「知って良かった」「へぇ~」な汽車旅関連の話題をご紹介します。お楽しみに!
毎回幅広いテーマの中から、「乗ってみたい」「知って良かった」「へぇ~」な汽車旅関連の話題をご紹介します。お楽しみに!
汽車・電車の踏切 [No.H006]
右の写真をみてください。踏切警報機に「汽車」とでていますね。その下にも同じように円形が二つあって、よくみると「電車」と読めます。
これは、JR山陰本線の出雲市駅から米子方面に行ったところにある踏切で、並行して走る一畑電車が山陰本線から離れていくあたりです。一畑電車だと、出雲科学館パークタウン前〜大津町間となります。両駅間は1.2kmですが、この踏切はほぼ駅の中間に位置していて、やや大津町駅の方が近いかなというところです。
では、なぜ「汽車」と「電車」なのでしょう。一般的な警報機であれば、矢印で列車が来る方向を表示したりしていますよね。
これは、前述のJR山陰本線と一畑電車が並行して走っていることに関係しています。というのも、この地域ではJRは「汽車」と呼ばれ、「電車」といえば一畑電車を指すためです。
このような呼び方は、この出雲地方が珍しいわけではありません。地方の比較的大きな都市では、いまも同じように呼ばれているところが少なくないのです。何故だかわかりますか?
日本では、明治5年に初の鉄道が開業しています。よく知られている、新橋〜横浜間です。その2年後には大阪〜神戸間も開業しています。これらの開業は大成功で、その後も政府が鉄道延伸を積極的に続けたことは皆さんご存知の通りです。
その頃の鉄道といえば、蒸気機関車が客車や貨車を引っ張って走るものでした。そのため、人々は親しみを込めて線路上を走る列車のことを「汽車」と呼ぶようになりました。童謡にも「汽車ポッポ」というタイトルがあるほど、全国的に広まった言葉です。
一方、都市部では明治28年開業の京都電気鉄道をはじまりにして、路面電車が普及していきます。路面電車は「市営電車」「市内電車」「市電」というように呼ばれていて、電車といえば市電を指し、国鉄(当時は官営鉄道)は汽車と呼ばれ続けたようです。ただし、大都市圏だと電鉄会社が登場し、地下鉄も登場、国鉄でも院線電車→省線電車→国電orゲタ電と呼ばれる都市型の鉄道ができていったため、鉄道と電車が一般には同等の意味を持つようになっていきました。いまや、都市部で生まれ育った人たちは、鉄道車両を全て電車と呼んで憚らないような状況になっていることに、気づいていられる方も多いと思います。
このようにして、地方都市では「汽車」は国鉄、「電車」は路面電車や電鉄会社という言い方が定着します。それが今も続いているのは、おそらく国鉄の電化率がなかなか高まらず、その間に言葉が定着してしまったことが原因でしょう。そのため、JRになった今日でもその呼び方が続いていると考えられます。
ここまででお気づきになったと思いますが、冒頭に記した踏切の表示は、まさに日本における鉄道史の一端を今に語り継ぐものなのです。
ただし、山陰本線と一畑電車が同じ踏切を使っているところは2箇所だけです。そのうち出雲科学館パークタウン前駅に近い側も以前は「汽車」「電車」だったのですが、道路改修に合わせて建て替えられ、今では「JR」「一畑」の表記となってしまいました。ですから、いまも「汽車」「電車」の表記がある警報機は、日本でここだけとなっています。
貴重な歴史の生き証人として、これからもこの表記を引き継いでいって欲しいものです。
掲載日:2012年09月28日
これは、JR山陰本線の出雲市駅から米子方面に行ったところにある踏切で、並行して走る一畑電車が山陰本線から離れていくあたりです。一畑電車だと、出雲科学館パークタウン前〜大津町間となります。両駅間は1.2kmですが、この踏切はほぼ駅の中間に位置していて、やや大津町駅の方が近いかなというところです。
では、なぜ「汽車」と「電車」なのでしょう。一般的な警報機であれば、矢印で列車が来る方向を表示したりしていますよね。
これは、前述のJR山陰本線と一畑電車が並行して走っていることに関係しています。というのも、この地域ではJRは「汽車」と呼ばれ、「電車」といえば一畑電車を指すためです。
このような呼び方は、この出雲地方が珍しいわけではありません。地方の比較的大きな都市では、いまも同じように呼ばれているところが少なくないのです。何故だかわかりますか?
日本では、明治5年に初の鉄道が開業しています。よく知られている、新橋〜横浜間です。その2年後には大阪〜神戸間も開業しています。これらの開業は大成功で、その後も政府が鉄道延伸を積極的に続けたことは皆さんご存知の通りです。
その頃の鉄道といえば、蒸気機関車が客車や貨車を引っ張って走るものでした。そのため、人々は親しみを込めて線路上を走る列車のことを「汽車」と呼ぶようになりました。童謡にも「汽車ポッポ」というタイトルがあるほど、全国的に広まった言葉です。
一方、都市部では明治28年開業の京都電気鉄道をはじまりにして、路面電車が普及していきます。路面電車は「市営電車」「市内電車」「市電」というように呼ばれていて、電車といえば市電を指し、国鉄(当時は官営鉄道)は汽車と呼ばれ続けたようです。ただし、大都市圏だと電鉄会社が登場し、地下鉄も登場、国鉄でも院線電車→省線電車→国電orゲタ電と呼ばれる都市型の鉄道ができていったため、鉄道と電車が一般には同等の意味を持つようになっていきました。いまや、都市部で生まれ育った人たちは、鉄道車両を全て電車と呼んで憚らないような状況になっていることに、気づいていられる方も多いと思います。
「汽車・電車」の踏切をはじめ、
全国のユニークな踏切を集めた書籍。 筆者の編著で、東邦出版から発売中。
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ここまででお気づきになったと思いますが、冒頭に記した踏切の表示は、まさに日本における鉄道史の一端を今に語り継ぐものなのです。
ただし、山陰本線と一畑電車が同じ踏切を使っているところは2箇所だけです。そのうち出雲科学館パークタウン前駅に近い側も以前は「汽車」「電車」だったのですが、道路改修に合わせて建て替えられ、今では「JR」「一畑」の表記となってしまいました。ですから、いまも「汽車」「電車」の表記がある警報機は、日本でここだけとなっています。
貴重な歴史の生き証人として、これからもこの表記を引き継いでいって欲しいものです。
掲載日:2012年09月28日
●伊藤 博康(いとう ひろやす)
(有)鉄道フォーラム代表。愛知県犬山市生まれ。パソコン通信NIFTY-Serve草創期から鉄道フォーラムに関わり、1992年から運営責任者。(有)鉄道フォーラムを設立後、独自サーバでサービスを継続中。著書に「日本の “珍々”踏切」(東邦出版)「鉄道ファンのためのトレインビューホテル」「鉄道名所の事典」(東京堂出版)がある。現在、中日新聞社「達人に訊け」でもコラムを連載中。
(有)鉄道フォーラム代表。愛知県犬山市生まれ。パソコン通信NIFTY-Serve草創期から鉄道フォーラムに関わり、1992年から運営責任者。(有)鉄道フォーラムを設立後、独自サーバでサービスを継続中。著書に「日本の “珍々”踏切」(東邦出版)「鉄道ファンのためのトレインビューホテル」「鉄道名所の事典」(東京堂出版)がある。現在、中日新聞社「達人に訊け」でもコラムを連載中。
山陰本線の気動車が通過中で、「汽車」がピッタリ。
でも、この区間は電車も走るわけで…