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- 2018年07月20日(金)掲載
- [No.H294] 拙著「東海鉄道散歩」が7月21日に発刊されます
- 2018年07月13日(金)掲載
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- 2018年06月29日(金)掲載
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- 2018年06月22日(金)掲載
- [No.H290] 鉄道の父「井上勝」像でつながる山陰本線萩駅と東京駅
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- [No.H289] 鉄道の父「井上勝」像がある、山陰本線萩駅
- 2018年06月08日(金)掲載
- [No.H288] 大阪市営地下鉄は、民営化して Osaka Metro に
"鉄道フォーラム"代表の伊藤博康氏による鉄道コラム。
毎回幅広いテーマの中から、「乗ってみたい」「知って良かった」「へぇ~」な汽車旅関連の話題をご紹介します。お楽しみに!
毎回幅広いテーマの中から、「乗ってみたい」「知って良かった」「へぇ~」な汽車旅関連の話題をご紹介します。お楽しみに!
鉄道文化財をめぐる(5) 横浜のデートコースは廃線跡 [No.H045]
横浜みなとみらい21といえば、横浜のデートスポットとして知られていますよね。そのなかでも代表的な散歩道に「汽車道プロムナード」があります。汽車の道? …そうです、今回はこの「汽車道」がテーマです。
JR桜木町駅すぐの日本丸交差点から、汽車道プロムナードが始まっています。すぐに橋を渡りますが、遊歩道にしてはやけに大きくガッチリとしています。
横から見ると、右の写真のように鉄橋そのものです。そういえば、その先に続く道も、築堤のようですよね。それもそのはず。もともと臨港線と呼ばれる鉄道線だったものなのです。
旧横浜駅から横浜港への鉄道線として造られたもので、1911(明治44)年から貨物輸送に使われ、1920(大正9)年からは旅客輸送にも使われています。横浜港への旅客ですから、当時は高嶺の花だった国際航路の乗客を運んでいたわけです。
さて、この写真にある橋は、港一号橋梁と呼ばれているもので、1907(明治40)年にアメリカン・ブリッジ社で造られたものです。汽車道を歩くときに、トラス端部をみると、いまも「AMERICAN BRIDGE COMPANY, OF NEW YORK, USA 1907」と記された銘板を身近に見ることができます。続く港二号橋梁も同じ形で同じ会社製です。
さらに歩みを進めると、港三号橋梁があります。左の写真の左下に写っている橋です。でも、なんだか不自然ですよね? 汽車道の歩道にはレールっぽいデザインがあるのですが、それは橋の隣を通っています。また、汽車道を跨いで作られた正面のホテルとの位置関係も微妙です。その理由は、この港三号橋梁だけ移設され、本来の橋梁の横に設置されたためです。先の2つの橋梁は米国製でしたが、こちらは英国製です。北海道の夕張で1906(明治39)年に架設されたのですが、1928(昭和3)年に旧大岡川橋梁に移設され、さらに1997(平成9)年に汽車道を造る際にこの場所に移設されたそうです。米国製が主流になる以前に輸入された、貴重な英国製橋梁ということで保存されたようです。
ここまでに記した港一・二・三号橋梁は、全て横浜市の歴史的建造物に指定されるとともに、経済産業省から近代化産業遺産にも認定されています。なんとなく歴史がありそうだな…と思って歩いていた方も、このようなことを知ると、見直して今一度歩きたくなりませんか?
さて、汽車道をさらに歩くと、万国橋交差点で終わりとなります。
でも、ここで線路が途切れていたわけではありません。少し先に見える赤レンガ倉庫まで歩を進めましょう。すると、赤レンガ倉庫2号館の手前付近から、またまたレールっぽいデザインが登場します。それも、今度はよりリアルでかつ複線です。左カーブをするその複線レールを辿ると、すぐにホームがあることに気付きます。
このホームは、本物です。前述した、国際航路の乗客たちがかつて汽車から降りた、その横浜港駅のホームなのです。すぐ近くに岸壁がありますが、そのあたりから国際航路が出港していたようです。戦時中は国際航路がなくなりましたが、1957(昭和32)年に横浜港からの国際航路が再開されました。その最初の便は、いま山下公園付近で公開展示されている日本郵船の氷川丸だったそうです。また、この氷川丸の最後の航海は1960(昭和35)年だったそうですが、そのときも横浜港駅すぐのところにある4号岸壁を使用したそうです。
こんな歴史を知ったうえで、横浜へ行ったら汽車道を歩いてみてはいかがでしょう。
なお、これだけではもの足らないという健脚な方は、赤レンガ倉庫から先に山下臨港線プロムナードという、これまた廃線跡を利用した歩道が続いています。こちらも続けてお楽しみ下さい。
掲載日:2013年07月05日
JR桜木町駅すぐの日本丸交差点から、汽車道プロムナードが始まっています。すぐに橋を渡りますが、遊歩道にしてはやけに大きくガッチリとしています。
横から見ると、右の写真のように鉄橋そのものです。そういえば、その先に続く道も、築堤のようですよね。それもそのはず。もともと臨港線と呼ばれる鉄道線だったものなのです。
旧横浜駅から横浜港への鉄道線として造られたもので、1911(明治44)年から貨物輸送に使われ、1920(大正9)年からは旅客輸送にも使われています。横浜港への旅客ですから、当時は高嶺の花だった国際航路の乗客を運んでいたわけです。
さて、この写真にある橋は、港一号橋梁と呼ばれているもので、1907(明治40)年にアメリカン・ブリッジ社で造られたものです。汽車道を歩くときに、トラス端部をみると、いまも「AMERICAN BRIDGE COMPANY, OF NEW YORK, USA 1907」と記された銘板を身近に見ることができます。続く港二号橋梁も同じ形で同じ会社製です。
さらに歩みを進めると、港三号橋梁があります。左の写真の左下に写っている橋です。でも、なんだか不自然ですよね? 汽車道の歩道にはレールっぽいデザインがあるのですが、それは橋の隣を通っています。また、汽車道を跨いで作られた正面のホテルとの位置関係も微妙です。その理由は、この港三号橋梁だけ移設され、本来の橋梁の横に設置されたためです。先の2つの橋梁は米国製でしたが、こちらは英国製です。北海道の夕張で1906(明治39)年に架設されたのですが、1928(昭和3)年に旧大岡川橋梁に移設され、さらに1997(平成9)年に汽車道を造る際にこの場所に移設されたそうです。米国製が主流になる以前に輸入された、貴重な英国製橋梁ということで保存されたようです。
ここまでに記した港一・二・三号橋梁は、全て横浜市の歴史的建造物に指定されるとともに、経済産業省から近代化産業遺産にも認定されています。なんとなく歴史がありそうだな…と思って歩いていた方も、このようなことを知ると、見直して今一度歩きたくなりませんか?
さて、汽車道をさらに歩くと、万国橋交差点で終わりとなります。
でも、ここで線路が途切れていたわけではありません。少し先に見える赤レンガ倉庫まで歩を進めましょう。すると、赤レンガ倉庫2号館の手前付近から、またまたレールっぽいデザインが登場します。それも、今度はよりリアルでかつ複線です。左カーブをするその複線レールを辿ると、すぐにホームがあることに気付きます。
このホームは、本物です。前述した、国際航路の乗客たちがかつて汽車から降りた、その横浜港駅のホームなのです。すぐ近くに岸壁がありますが、そのあたりから国際航路が出港していたようです。戦時中は国際航路がなくなりましたが、1957(昭和32)年に横浜港からの国際航路が再開されました。その最初の便は、いま山下公園付近で公開展示されている日本郵船の氷川丸だったそうです。また、この氷川丸の最後の航海は1960(昭和35)年だったそうですが、そのときも横浜港駅すぐのところにある4号岸壁を使用したそうです。
こんな歴史を知ったうえで、横浜へ行ったら汽車道を歩いてみてはいかがでしょう。
なお、これだけではもの足らないという健脚な方は、赤レンガ倉庫から先に山下臨港線プロムナードという、これまた廃線跡を利用した歩道が続いています。こちらも続けてお楽しみ下さい。
掲載日:2013年07月05日
●伊藤 博康(いとう ひろやす)
(有)鉄道フォーラム代表。愛知県犬山市生まれ。パソコン通信NIFTY-Serve草創期から鉄道フォーラムに関わり、1992年から運営責任者。(有)鉄道フォーラムを設立後、独自サーバでサービスを継続中。著書に「日本の “珍々”踏切」(東邦出版)「鉄道ファンのためのトレインビューホテル」「鉄道名所の事典」(東京堂出版)がある。現在、中日新聞社「達人に訊け」でもコラムを連載中。
(有)鉄道フォーラム代表。愛知県犬山市生まれ。パソコン通信NIFTY-Serve草創期から鉄道フォーラムに関わり、1992年から運営責任者。(有)鉄道フォーラムを設立後、独自サーバでサービスを継続中。著書に「日本の “珍々”踏切」(東邦出版)「鉄道ファンのためのトレインビューホテル」「鉄道名所の事典」(東京堂出版)がある。現在、中日新聞社「達人に訊け」でもコラムを連載中。
横浜みなとみらい21地区を貫く道。
デートスポットとして人気だが、
廃線跡を活用した遊歩道だ。