日本旅行 トップ > JR・新幹線+宿泊 > 鉄道の旅 > 汽車旅ひろば > ひろやすの汽車旅コラム 「鉄道文化財をめぐる(4) 鉄道記念物 井上勝の墓」

[ ここから本文です ]

汽車旅ひろば - ひろやすの汽車旅コラム

汽車旅ひろば


  • ひろやすの汽車旅コラム
"鉄道フォーラム"代表の伊藤博康氏による鉄道コラム。
毎回幅広いテーマの中から、「乗ってみたい」「知って良かった」「へぇ~」な汽車旅関連の話題をご紹介します。お楽しみに!

鉄道文化財をめぐる(4) 鉄道記念物 井上勝の墓 [No.H037]

イメージ
クリックして拡大
東海道本線の高架下すぐにある史蹟。
この史蹟と東海道本線のあいだの小道を歩くと、
つきあたりが東海寺だ。
鉄道記念物とは、1958(昭和33)年10月14日に国鉄が制定した「鉄道記念物等保護基準規程」をもとにしたもので、日本の鉄道発達史において歴史的・文化的価値が高いと認められた対象を指定したものです。国鉄時代は、10月14日の「鉄道記念日」(現・鉄道の日)に、ほぼ毎年指定をしていましたが、国鉄末期となる昭和61年を最後に新規指定が途絶えました。なお、その後、JRグループの一部で指定見直しや追加が行われています。

その指定2年目となる1959(昭和34)年には、お墓が鉄道記念物に指定されています。今回取りあげる「井上勝の墓」です。
その墓所は、東海寺大山墓地という、東京都品川区の寺院敷地内にあります。京浜急行新馬場駅から山手線大崎駅へと続く山手通りを5分も歩くと、東海道本線の下をくぐります。その高架下を抜けたところに、右に折れる道があります。史蹟・官営品川硝子製作所跡の碑がある角です。ちなみに、その先では東海道本線と山手線もくぐり抜けます。ここで右に曲がり、線路沿いの細い道を進むとすぐに東海寺となります。


イメージ
クリックして拡大
鉄道記念物の石碑もある井上勝の墓
背後を東海道新幹線と山手線が走り、
参道を挟んだ墓前には東海道本線が走っている。

この東海寺の墓地には、沢庵和尚や賀茂真淵の墓もあります。これらは、国指定の史跡に指定されています。それらの墓碑を見ながら、墓地の一番奥まったところまで進むと、目ざす井上勝の墓碑がありました。傍らには、鉄道記念物・昭和39年10月14日指定と刻まれた石碑もあります。ほぉ、と立ち止まったときに、そのお墓の背後を東海道新幹線700系が通過しました。東海道新幹線の先には山手線も走っています。
先に記した通り、ここは東海道新幹線・山手線と東海道本線に挟まれた地です。その先端となる井上勝の墓地は、まさに品川を出た東海道本線が山手線と分かれた三角地帯です。"鉄道の父"と呼ばれることもある、井上勝は生前、死後も鉄道の発展を見守りたいとして、自らこの場所を選定したそうです。その墓地と山手線の間には、のちに世界に冠たる東海道新幹線が敷かれたわけで、井上勝氏としてもさぞ誇らしく思っていることでしょう。

イメージ
クリックして拡大
ひっきりなしに走る東海道本線と京浜東北線。
その金網の手前にも、JR東日本が建植した、
鉄道記念物の石碑がある。
井上勝は長州出身で、21歳で密航してイギリスに渡り、鉄道や鉱山についてロンドン大学で学び卒業した人物です。日本初の鉄道敷設を決める交渉の際には、岩倉具視とイギリス公使パークスとの通訳をしたところから鉄道に関わりはじめ、新橋~横浜間の建設時には鉄道頭の肩書きがついています。さらに、日本人の手による大阪~神戸間開業をはじめ、東海道線全通や碓氷峠へのアプト式導入など、後の国鉄の地盤を築いています。退官後には汽車製造合資会社(のちに川崎重工業と合併)を設立して、国産機関車製造への道筋もつけています。
墓前となる東海道本線沿いには、JR東日本が平成10年10月14日に建植した、鉄道記念物の石碑もあります。東海道本線と京浜東北線の電車は、その前を次々に駆け抜けていました。

掲載日:2013年05月10日


●伊藤 博康(いとう ひろやす)
(有)鉄道フォーラム代表。愛知県犬山市生まれ。パソコン通信NIFTY-Serve草創期から鉄道フォーラムに関わり、1992年から運営責任者。(有)鉄道フォーラムを設立後、独自サーバでサービスを継続中。著書に「日本の “珍々”踏切」(東邦出版)「鉄道ファンのためのトレインビューホテル」「鉄道名所の事典」(東京堂出版)がある。現在、中日新聞社「達人に訊け」でもコラムを連載中。